少しずつ、
甲州ブドウのストーリーを掲載しています。
お楽しみに。
富士山ワイナリーのウイルスフリー甲州の苗木増殖の様子
富士山ワイナリーのウイルスフリー甲州の苗木増殖の様子を紹介します。
ワイナリー近くのビニールハウスでウイルスフリー甲州の苗木を育てています。
挿し木作製の様子や、ビニールハウスですくすく育った樹にブドウが実る様子などご覧いただけます。
童謡 ≪月の沙漠≫は、砂漠と無関係!いわんやシルクロードをや!!
三輪錠司
illustration 工藤 捺望
21世紀の初頭に甲州ぶどう(学名:Vitis sp. cp. Koshu)が欧州種 Vitis viniferaの一分派種であることがわかりました。明治維新まで甲斐国と呼ばれていた山梨県の伝承では、甲州ぶどうの歴史は千年以上に及びます。すなわち、千年の昔、はるか西方からシルクロードを経て東方の島国に辿りついたことになります。ロマンに満ちた空想や連想を誘うに十分です。わたしには、そうした連想の中に有名な童謡≪月の沙漠≫がありました。“その沙漠にはシルクロードがあるやなしや”と問うたのが本稿の切っ掛けになっています。甲州ぶどうの来歴については、巻頭文の”Koshu事始”をご参照ください。
加藤まさを(※1)作詞、佐々木すぐる(※2)作曲による≪月の沙漠≫は口ずさんだことのないひとのまずいない有名な童謡でありますが、おそらく歌詞を最後まではっきりと記憶しているひとは少ないとおもわれます。たとえば、王子様とお姫様は一体どこの砂漠にいて何をおもいながらラクダに乗っていたのでしょうか。 その感傷的なメロディーのために、幼いころは一種の郷愁と外国へのエキゾチックな憧憬とが複合した想いで若い王子様とお姫様の物語を勝手に創作しながら聞いていたものですが、いま改めて歌詞を読んでみると、この自分勝手な創作は見事に裏切られる内容であることに気づきました。この二人はとても寂しげでひょっとすると、皇帝か王様である父親に勘当されて城を追い出されたのか、或いは許されぬなかのため駆け落ちを決行したのか、今は行く当てもなく砂漠を彷徨っているとも考えられるような悲歌であることに驚いております。
この歌詞に対し、砂漠の旅に豊富な経験をもつジャーナリストの本田勝一が興味深いコメントをしているようです。曰く、『砂漠では金や銀の甕(かめ)はありえない。すぐに熱してしまうので飲料には適さない。このように二人だけで旅していれば、すぐにベドウィンなど遊牧の民に略奪されてしまうであろう(注1)。砂漠では”朧月”はまず考えられない』などなどと。
実際、加藤まさをは、結核の療養のため訪れていた房総半島の御宿(おんじゅく)海岸の砂浜をイメージして歌詞を思いついたということです。ゴビ、タクラマカン、カヴィール、レギスタン、ルブアルハリやサハラなど見渡す限り遮るもののない広大な砂漠のイメージからはほど遠い太平洋に浮かぶ日本列島の小さな海岸の砂浜が二人の舞台であったとはまこと一本取られたの感しかありません。
確かに歌詞をよく見れば、月のさばくのさばくは、“砂”漠ではなく“沙”漠になっています。(御宿)海岸の沙浜がいしへんの砂漠になってはイメージに合わないと、さんずいへんの沙漠にしたと加藤まさを自ら解説しております。ところが、晩年になって、音楽評論家や歌手には月の沙漠は月にある沙漠でもよいと説明していたとのことです。晩年は、歌うひとや聞くひとのイメージに合えばよいとおもっていたものと考えられます。
この柔軟性を、加藤の心根の優しさと解釈する向きもあるようですが、それとは別に、すでに本田勝一の指摘によって加藤のイメージした沙漠が現実とはおよそかけ離れたものであることを知ったときから、≪月の沙漠≫の沙漠はどこにあってもよいものになっていたのではないでしょうか。
以上、シルクロードというロマンティックな響きをもつ言葉から童謡≪月の沙漠≫を連想し、もしかして歌詞の中に“シルクロード”という言葉が見つかるかも知れないと期待して調べた結果、判ったことです。
加藤まさをが≪月の沙漠≫を作曲したのは1922年のことだそうです。シルクロードという言葉が使われるようになったのは、ドイツの地理学者で探検家リヒトホーフェン(※3)(Ferdinand Freiherr von Richthofen:5 May 1833 – 6 October 1905)が1877年、著書『China(支那)』の中で洋の東西を結ぶ交易路である、それまでの通称「オアシスロード:オアシスの道」を“Seidenstraßen”(ドイツ語で「絹の道」)として表現したのが最初であるとのことです。したがって、加藤がこれ(シルクロード)をイメージして作詞することは時代的には可能であったはずです。しかし、ごく少数の地理学の専門家のみが知る程度であったであろう名称「シルクロード」を加藤が知っていたと推理するのはかなり無理があります。
それでは、「シルクロード」が日本でも一般的に知られるようになったのは何時からと考えればよいのでしょうか。リヒトホーフェンの弟子で、楼蘭(ろうらん)の遺跡を発見したことで有名なスウェーデンの地理学者・探検家ヘディン(※4)(Sven Anders Hedin:19 February 1865 – 26 Novembe)が自らの中央アジア旅行記のひとつに用い、この書(旅行記)が1938年に『The Silk Road』として英訳出版されてからであったと考えるのが理にかなっています。したがって、加藤が≪月の沙漠≫を創作する時(1922年)に、シルクロードを全く想像できなかったとしても何の不思議もありません。
甲州ぶどうのロマンに満ちた伝承と来歴から私がふと連想した童謡≪月の沙漠≫は、私のさらなる連想を誘発し、歌詞の中での発見を期待したシルクロードはまさに砂漠の蜃気楼のように消え去りました。しかもこの月の“さばく”が通常私たちがイメージする砂漠とは大きく異なる“沙”漠であることもよくわかりました。連想も期待も見事な空振りに終わったわけですが、この“空振り”から結構多くのことを学ぶことができました。甲州ぶどう、ありがとう!!
この駄文が皆さまにも何がしかのお役にたつことがあれば幸いです。
千年以上の昔から日本で育てられてきた甲州(ぶどう)は、そのゲノム(遺伝子の全体)のおよそ70%がワイン用ぶどうとして知られる欧州種Vitis vinifera由来であります。Vitis viniferaはカスピ海沿岸のコーカサス地方が原産と考えられていますので、甲州は日本から遥か遠く離れた地から古来「オアシスの道」と呼称され、19世紀のドイツ人地理学者・探検家Ferdinand von Richthofen(1833~1905)が「絹の道」として世に紹介した洋の東西を紡ぐ要路を経て日本に持ち込まれたはずです。持ち込まれた確かな時期は不明ですが、飛鳥・奈良時代にはすでに栽培されていたものと考えてもよい文献や伝承がわずかながら残っています。
ぶどう寺として知られる山梨県甲州市勝沼にある大善寺の伝承などにより、東大寺造立の勧進として知られる僧の行基(668年~749年)の時代までには、甲州が日本に渡来していたものと考えれます。巻頭文の“Koshu事始”をご覧ください。
注1) 現在では、許されざる偏見。
参考としたURL
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※1 加藤まさを(1897年4月10日 - 1977年11月1日)静岡市藤枝市 出身
藤枝市郷土博物館・文学館 加藤まさを -
※2 佐々木すぐる(1892年4月16日 - 1966年1月13日)兵庫県高砂市 出身
高砂市役所 魅力発信・観光サイト 佐々木すぐる -
※3 フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen:5 May 1833 – 6 October 1905)
SciHi Blog Ferdinand Freiherr von Richthofen and the Silk Road -
※4 スヴェン・アンダシュ(アンデシュ)・ヘディン(Sven Anders Hedin:19 February 1865 – 26 November 1952)
Britannica History & Society Sven Anders Hedin
筆者紹介
三輪錠司 Joji Miwa
IBR代表/中部大学客員教授
専門分野:分子生物学
J.S.A. ワインエキスパート
1968年 | イェ―ル大学 分子生物物理学科 卒業 |
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1973年 | コロラド大学大学院 生物物理学研究科 博士課程 学位取得 |
1979年 | IBR(生物医学研究所) 代表 現在に至る |
1984年 | NEC(日本電気株式会社) 中央研究所 主管研究員/主席研究員 |
2000年 | 中部大学 応用生物学部 教授 |
現在 | 中部大学客員教授 |
ブドウ樹のウイルス病について
甲州ぶどうからより高品質なワインを醸造するために、ウイルスに感染していないブドウを栽培することも重要です。今回は、ブドウ樹のウイルス病について 山梨大学 ワイン科学研究センターの鈴木俊二教授に伺いました。
ブドウ樹がウイルス病に感染すると、樹勢の低下や収量の減少、果実品質の劣化などが起きます。ブドウに感染するウイルスは多種多様です。ブドウ葉巻随伴ウイルス(GLRaV)、ブドウフレックウイルス(GFkV)、ブドウAウイルス(GVA)、ブドウBウイルス(GVB)、ルペストリスステムピッティングウイルス(RSPaV)などが主要なものですが、レッドブロッチウイルス(GRBV)など新しいウイルスも出現しています。これらのウイルスは、コナカイガラムシやハダニなどの害虫によって伝播されるほか、接ぎ木などによっても広がります。
ウイルス病は一度感染すると治療することはできません。そのため、ブドウ栽培においては、ウイルスフリー苗を利用することがとても重要です。ウイルスフリー苗とは、生長点(茎頂)培養でウイルスを除去した苗木のことです。少し詳しく説明しますと、細胞の分裂増殖が盛んな生長点はウイルスが感染していません。この性質を利用して、顕微鏡下で生長点を切り出し、人工培養します。この方法で作られた苗はウイルスがまったく感染していませんので、ウイルスフリー苗と呼ばれています。ウイルスフリー苗は少し高価ですが、健全なブドウ樹を維持し、安定した収量と品質を得るために欠かすことはできません。
ブドウ栽培におけるウイルス感染は、世界的な問題となっています。日本でも、地域や品種にかかわらず、多くのブドウ樹がウイルスに感染していると推測されます。しかし、多くの場合、ウイルス感染による症状は目立たないため、気づかないまま栽培を続けてしまい、知らずにウイルス感染の拡大を手助けしているかもしれません。定期的にウイルス検定を実施することをお勧めします。
日本古来のぶどう“甲州”
―存亡の危機と復活―
日本古来種である甲州ぶどうは和食にもっとも相性の良い白ワイン用品種として近年世界的に注目されています。ところが、現在では信じられないかと思いますが、2003年ころまでは絶滅の危機に瀕していたのです。
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甲州ぶどうの可能性を信じていた私たちは、2003年『白ワインの法王』と呼ばれていたボルドー大学醸造学部長、ドゥニ・デュブルデュー教授を訪問しました。教授のご助言の下、ぶどうのDNA鑑定を米国Plant Foundation Servicesに依頼、甲州ぶどうがワイン醸造用ぶどうであるVitis vinifera種由来であるお墨付きを得ました。その後、教授を醸造コンサルタントとして招聘し、教授のご指導のもと世界基準のワインを造ることに成功しました。甲州絶滅の危機を救うきっかけとなった瞬間であると私たちは今も誇らしく思っています。2004年のことです。
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この出来事を記念して、山梨の地で、デュブルデュー教授をはじめ、ワイン批評の世界的権威で「パーカーポイント」としてもその名を知られるロバート・パーカー氏や、日本全国のワイナリーの方々を招きシンポジウムを開きました。その時、丁度私たちが『世界に通じるワインを造る』をテーマに醸造していた≪甲州・キュヴェ・ドゥニ・デュブルデュー 2004≫の初ヴィンテージをロバート・パーカー氏がテイスティングされました。そして「こんなピュアで美しいワインを私は初めて飲みました。アメリカで寿司を食べる時にこのワインを飲みたい。」とパーカー氏はおっしゃったのです。
これを起点に甲州ワインブームが始まったといっても言い過ぎではないと私たちは思っています。より良いワインを造りたいという情熱をもった若い世代の人たちから、徐々に輪を広げ、世界的な和食ブームも相まって、現在ではすべての世代に受け入れられ始めています。
私たちは、さらに、甲州ぶどうからより高品質なワインを醸造したいと考え、中部大学を中心としたアカデミアの人たちとの共同研究もスタートしました。